東能美島と西能美島の古代

 むかしむかしの大化の改新より以前、能美島の海辺に住む農漁民の人達は、海辺に小さな小集落を形成して生活しており、そこでとれた海産物は中央(大和朝廷?)に献納していました。
 また、この頃の安芸の国では造船が盛んで、能美島でも遣唐船のような船が建造されていたことを想像させる記録が残っています。
 奈良時代には、田んぼや畑は国家から借りるものという土地公有制(班田収授法)でしたが、人口の増加によって国民に貸す土地が不足した国家は、次第に規制を緩和(三世一身の法)しながらも、結局は、「自分の土地は自分で切り開け」という土地私有制(墾田永世私財法)に踏み切りました。
班田収授法」 … 大化の改新(645年)頃

 一定の年齢に達したら、国から土地を与えられ、死ぬまで作物を作り続け、死んだらその土地を国に返さなければならないといういや〜な制度。

三世一身の法」 … 723年(養老7年)

 新たに灌漑用水路を作って開墾した人は、その人の孫の代(三代)まで開墾した土地を所有でき、また既存の用水路を利用して開墾した人はその人一代に限ってその土地の所有を認められました。
 でも、結局は国に返さなければなりません。

墾田永世私財法」 … 743年(天平15年)

 自分で開墾した土地は、永久にその人の財産になり子孫に受け継がれます。

 このように墾田の私有を許したことこから荘園制が発達し、能美島においても平安時代後期、白河上皇の荘園として「能美庄」が出現しました。
荘園・庄園

 平安時代より室町時代にかけての貴族・寺社の私的な領有地。
 奈良時代に墾田などを起源として出現したけど、平安時代には地方豪族の寄進による立荘が盛んとなり、全国的に拡大して不輸不入権も認められるようになりました。
 鎌倉幕府の守護地頭制によって漸次武家に侵略され、南北朝の動乱以後は急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の時、太閤検地によって最終的に廃止されてます。

 能美庄は、皇室や高野山に関係ある庄園として有名で、白河上皇・八条女院を通じて高野山の奥院に食料や医療用の年貢を瀬戸内海を航行して高野山に運んだという記録が残っています。(「高野山御幸御出記」・「高野山盛衰記」)

 厳島(宮島)は能美荘について預り所職としての権利を寄進されていたので、能美荘直属の領主は厳島であり、その上に高野山が領家として控えていたことになります。
 また、能美荘は、白河上皇−鳥羽上皇−八条院−春嘉門院−順徳天皇−幕府(北朝方)没収−後高倉院−安嘉門院−(大覚寺統)−亀山上皇−御宇田上皇−後醍醐天皇の順に伝領されたと考えられています。

 能美荘は東能美島を本拠として島全体を包含していましたが、西能美島が独立して能美別符方として登場し、本荘と対等になるほど発展したことによって、本荘方地頭と別符方公文とが激しく対立したという経緯があります。(萩藩の「諸家系譜」に、延久2年(1070年)の能美荘別符方の記事があります。)
 このように、東・西能美島の人々は、時には対立したり、力を出し合ったりしながら、生活や里づくりのためにそれぞれ主体的な努力を重ねてきて今日に至っています。
 現在も東能美島・西能美島の呼称が残るのはそうした祖先の生きた歴史を物語るものであり、東・西能美島のそれぞれに、ふるさとの守り神としての総鎮守の神社があります。
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