『能美町誌』(平成7年能美町発刊)p.130 第二編 能美町の歴史より

六 伊能忠敬の能美島測量行
 幕末の安永八年(1779)、ロシア船が蝦夷地に偵察来航した。
 次いで、寛政四年(1792)、ロシア使節が通商要求に来日した。
 そうした世界の動きの中で、日本も外交上の鎖国と平和・安眠をむさぼっているわけにはいかなくなった。
 幕府は、対外的にも日本全体の正確な地勢・面積・交通・産業・軍事力その他を調査し、国防のために、積極施策の必要に迫られた。
 その一環として幕府は、商人出身の篤学の士・伊能忠敬に命じて、日本全体の測量を行い、正確な地図の作成にかかった。
 その一行が能美島の測量に来島したのは、文化三年(1806)三月のことである。江田島・能美島での一行の動静は次のようであった。
 各村々から荷役や接待、舟運などに多くの人々が連日動員された。
当時としてはまことに大掛かりな測量作業と、その関連作業であったが、物珍しさもあってそれぞれの地域では進んで協力したとある。
    当時の地図といえば絵地図を使用してたが、この伊能忠敬の測量行で、現在の地図とほとんど違わないものができた。

伊能忠敬沿海圖の能美島附近測量日誌(抜粋)から

(千葉県佐原市伊能忠敬記念館蔵)

文化三年(1806)
三月九日 伊能忠敬(東河)の止宿所(蒲刈島天和屋平左衛門)を大庄屋玖波村平田半左エ門庄屋代佐方村與頭半八が訪ねて測量船、日取、人夫等の指示を受ける
三月二十一日 晴天 江田島及び津久茂村を測量、二番隊は本浦に止宿 此の夜、晴 一番隊、三番隊、四番隊は乗船し、江波島より江田島、能美島、天体測量す
三月二十二日 晴天 一番隊は小用、秋付浦、ヒトノセ浦を通り、内海の馬石にて二番隊と合測 二番隊は高祖浦、三吉浦、高田浦、中浦、ヒトノセ村の馬石に至り、各番隊は船内に止宿 次の測量地へ移動す
三月二十三日 中晴 大原、深江、小古江、柿浦、大君を測量 大原へ止宿 此の夜、晴 天体測量す
三月二十四日 中晴 各番隊は乗船し、大黒神島、鹿川浦、大王浦、岡浦、畑浦、是長浦、大、小ナサビ島 その夜厳島へ止宿す

伊能忠敬作成の地図