亀山城跡・土居家長家門

昭和57年江田島町発刊「江田島町史」p.85〜92抜粋・要約

 鎌倉幕府が倒れた元弘3年(1332)以降、四国では河野、長曾我部、細川氏らの勢力争奪の戦乱が続いていたが、やがて水軍の流れをくむ河野氏の一族である秀清、通重兄弟は家人を率いて北上し、兄秀清は能美嶋松尾山に、弟通重は江田嶋鷲部の亀山に拠った。
 ときに貞和2年(1346)4月である。
 この通重は後、久枝忠三重と称し以後220余年の長きにわたって水軍として内海に活躍した。

亀山城跡

    

 室町末期元亀元年(1570)、久枝氏は姓を吉原と改め、亀山城を下って家臣とともに本浦に移った。これによって、亀山城主となって220余年間、久枝氏の瀬戸内水軍としての活躍は幕を閉じた。
 その32年後の文禄2年(1593、)吉原与三兵衛重安が庄官に任ぜられ、それ以後明治初年まで代々庄屋、割庄屋として村のため善政を尽くし、ややもすれば百姓一揆の起こりやすいこの時代の村を治めたとのこと。

  

 久枝氏の下城後、亀山城は土居家の居城となった。
 土居氏は元亀元年依、亀山城主として、江田島湾を出入りする船の取締りに当たった。
 江田島湾の奥深い鷲部の地に水軍城が設置された要因は、江戸時代以前の江田島湾南端の飛渡瀬地区が小型船が通行可能な水路であったため、江田島南方海域から飛渡瀬と江田島湾を通過して江田島北方海域にいたる通過船が一望できる最適の地であったからと考えられる。

土居家長屋門
■木造 ■切妻造 ■本瓦葺
■桁行十間  ■梁間二間
  

 城跡は、今なお本丸、二の丸、三の丸の形態の跡をとどめている。
 土居氏の墓地は中郷の観音山にあったが、江戸時代の初期亀山に移し、さらに230年前、現在の墓地二の丸に移された。その際墓石は二の丸が狭いので全部埋め立てられたといわれてる。
 また水軍城として必要な舟の係留池跡と推測できる「江ノ口」の地名も残っている。

  

 現在残っている長屋門は約300年前に建築されたもので男部屋、女部屋などがあり、明治7年に創立された鷲部小学校の前身である浸潤舎は、この長屋門を教室に使用したものである。

  
 長屋門は、江戸時代には庄屋、名主、郷士などに限り長屋門を造ることを許されたという。

 

  
 この長屋門は、江田島町内に現存する最も古い木造建築で元禄年間の建物である。
 別名武家屋敷門と称され、出入門の左右に部屋のある建築様式が特徴である。